10月12日(金)晴れ

9時に大学へ。
事務作業を行い、お昼になって少し自作に手を入れることができた。
午後には古川美術館分館為三郎記念館へ。途中で見たセントラルパークは秋らしい景色になりつつある。

栄から地下鉄東山線で池下へ、古川美術館分館為三郎記念館で明日から開催される高北幸矢インスタレーション「落花の夢」の内覧会に出席。古川美術館では明日から伊藤小坡展が開かれる。

高北先生の展覧会「落花の夢」は先生が10年前に見た夢が元となっている。先生手作りの藪椿が為三郎記念館の至る所に置かれている。空間が異化されることによって為三郎記念館全体が新たな様相を見せている。

お菓子も先生がデザインされた藪椿。

杵屋六春さんとのコラボレーションは「山花始開」、長唄「鷺娘」によるサウンドインスタレーション。

心地よい秋の日の午後を高北先生の作品と為三郎記念館、そして杵屋六春さんの三者のコラボレーションで楽しませていただいた。

その後は、少しギャラリーを回り、栄の街角にあるカフェで休憩。空が赤く染まってきた。

カフェの後、愛知芸術劇場コンサートホールへ。
今日は名古屋フィルの定期演奏会。
6時になるともう暗い。

ティエリー・フィッシャー指揮、名フィルのショスタコーヴィチ交響曲第10番、全体に早めのテンポで颯爽としたイメージ。ショスタコーヴィチと同時代を生きた世代の演奏とは異なり、重厚さや豪快さや刺々しさとは距離を置いた、美しく研ぎ澄まされた表現だった。

この交響曲はスターリンの死後すぐに書かれたもので、当時は様々な憶測を呼んだ。アメリカでは「スターリン体制下のソヴィエトの民衆の苦しみ」を表現しているのではないかと言われ、当時のソ連社会の「雪どけ」といわれる自由主義的現象と結びつけられた。
また、ソヴィエト国内では「人間肯定的で楽観的」であるべき社会主義リアリズムに合致しない、との批判や、終楽章の弱さを指摘する純粋に音楽美学的な見地からの論争も呼んだ。
しかし、面白いのは第三楽章でホルンが12回も奏でる{E-A-E-D-A」の音型がモスクワ音楽院の教え子エリミーラ・ナジーロヴァの音名象徴であるということを彼が書簡の中で明記していること。また、第三楽章以降で頻出するドミートリー・ショスタコーヴィチを表すDSCH音型から、この交響曲がきわめて私的な動機から書かれたと考えられることだ。
このあまりにも執拗に繰り返されるDSCH音型を聴いていると、なにかショスタコーヴィチ自身が自己を奮い立たせようとしているように感じてしまう。なにか悲痛な叫びにも感じられる。

T.フィッシャー指揮の名フィルの演奏は、曲にまつわる歴史や物語に囚われず純粋に音楽的に彫琢されたもので、あらためてこの曲がすでに古典となっていることを感じさせるものであった。
また、名フィルは最後まで緊張感を途切れさせることなく見事だった。弦の音色も美しいし、管打楽器もレベルが高いと思う。このようなオケが地元にあることが嬉しい。
可能なら、T.フィッシャー指揮でショスタコーヴィチの交響曲をシリーズ化してもらいたいものだ。

エフゲニー・スドビンのピアノによるラフマニノフのピアノ協奏曲第1番も美しくまとまった演奏だった。
そうそう、ショスタコーヴィチの第一楽章の途中で第2ヴァイオリンの首席の方(?)の弦が切れ、そのヴァイオリンを演奏中にリレーで舞台裏に持って行き再び戻すという珍しい光景があった。その間も演奏の緊張が途切れなかったのはさすがだが、こういう緊急事態に備えたマニュアルがあるのだろうか… 第4楽章では指揮者の棒が落ちたのをチェロ奏者が拾って返すという場面もあったが、これは速やかな対応で見事だった。
そういうとこの前のセントラル愛知交響楽団の演奏会で、指揮者の高橋直史さんの眼鏡が飛んだのも珍しい光景だった。

コンサート終了後、近くのお店で名古屋音大の高橋学長とビール。
値段は少し高めだが、全国の地ビールがたくさん揃えられている。
これは香りが高く苦みがあり美味しい。やっぱりビールは苦みがなきゃ!

ということで3杯飲んで帰った。