グローバルナビゲーションへ

本文へ

ローカルナビゲーションへ

フッターへ



卒業生紹介

ホーム >  卒業生紹介 >  芸術家  >  タネリスタジオ >  アーティスト 設楽陸さん

アーティスト 設楽陸さん


設楽陸

幼少期に影響を受けた90年代のゲームカルチャーやそのビジュアルイメージ、育ったコミュニティの文化と環境や物語をテーマに、絵画、立体、ドローイング、ノートを用いて作品を制作。視覚情報の世界も妄想の世界も現実の世界も一つの情報として共有し、虚構と現実の境界線、デタラメ感、曖昧さを表出させようとしている。 

Webサイト

高校の頃について教えてください。

瀬戸窯業高校に通い、陶芸の勉強をしていました。だけど陶芸方面には進学しようとは考えていなかったかな。若かったこともあり、当時は陶芸に対して古臭いものっていう印象があって、もっとカッコいいものをやりたいなと考えていました。あと…僕、菊練りがずっとできなかったんですよ、陶芸の基礎なのにね(笑)悩んだ結果、絵を描いたり何か作ったりすることは好きなので美大を受験しようと思いました。なんですけど、父親も美術をやっていたので、同じ分野を避け、最初は建築を学ぶために名古屋造形大学へ進学を決めたんです。「絶対に建築家になるぜ!」とか思って入ったわけじゃなくて、やっぱり「なんかカッコ良さそうじゃん!」っていう勢いでしたね。

実際に名古屋造形大学に入ってみてどうでしたか?

いざ建築を学んでみたら、また基礎の図面がさっぱり引けなかったんですよ(笑)それならもう純粋にモノを作るアートをやろうと、色んなもの使ってなんでもやれる総合造形コース(現 美術表現領域)っていうところがあったので、そこに転コースしました。
総合造形コースに入ってからは、卵を6階から落として割れないようにする梱包や手段を考える授業だったり、アートフィールドという学外に出て展示をする授業だったり、Webの作り方とかも学んだり、本当に幅広いことをやりました。

現在の作品性に至ったきっかけを教えてください。

先生に立体のドローイング作品をみてもらった時に、「君は絵が面白いね。」って褒めていただけたんです。その後も学内で展示をした時、自コース以外の先生に「絵、面白いじゃん!」って言ってもらえて、中々作品で褒められることなんてなかったから、かなり嬉しかったのを覚えています。そうやって認めてくれる人がいるなら絵を描いていこうと方針を決めた感じです。今は立体とかもやるんですけど、最初は絵画からでした。

卒業後はどのように制作活動を続けていますか?

20代はアルバイトとアトリエを行ったり来たりしていました。最初から就職は考えていなくて、作家としての自分を発信したい、認めてほしいということを望んでいました。それで20代前半に個展を開催し、その後から企画展などに少しずつ呼んでいただけるようになって、26歳ぐらいで美術館での展覧会に参加しました。物凄く順調ってわけではないんだけど、やりたいことはやれていた方かな。

黒歴史ノートが話題になりましたが、この作品はどのように完成したのでしょうか?

デッサンや技術力に熱を入れていなかったこともあって、テクニック要素が弱かったんです。美大にいたのにキャンパスの張り方も分からなくて、力任せに釘で張っていました。今思うとかなりアウトサイダーだね(笑)いざ何を描こうかなって考えた時も、基礎があんまりないからさ、純粋に描きたいものとか過去の思い出とかを遡ってオリジナリティを求めていったんです。それで辿り着いたのが、頭の中で創った架空の歴史の再現でした。
僕らの幼少期って、ゲームやマンガは目が悪くなるとか頭が悪くなるとか言われて禁止されていたんだよね。そういう圧力をもろに受けて育ったから、ゲーム本体はないのに攻略本を買ってきてステージを書き写したり、RPGの設定を真似て自分たちで王国や歴史を考えたり、家のコンクリートの壁面に考えた世界を落書きしたり、友達と秘密基地をつくったり、とにかく、自分たちでゲームみたいな架空の世界を作って遊んでいたんです。それらを作品にしたのが架空の歴史ノート、通称”黒歴史ノート”です。
その後、ノートを名古屋市美術館で発表する機会があり、美術館の方々に協力してもらいながらコピー本を制作したんですが、手元にスキャンしたデータがあったこともあり電子書籍化してみたら、メディアで話題になっちゃって。

▲ネット通販でも販売されています

作品がメディアに取り上げられた時、どのような気持ちでしたか?

天にも昇るような気持ちでした、「やったぜ!!!」ってね。大きな波に乗れそうな雰囲気を感じていました。あの頃は実際に先輩作家の方々が一回の個展で作品完売、売上300万という煌びやかな現状を見ていたから、この先も若手作家のアートが売れていくんだろうな、なんてことをやんわり考えていました。ちょうどリーマンショックの時期だったんだけど、そういう経済の動き対する現実味がまだ実感できなかったんだ。
でも結局のところ、僕の生活はアルバイトを続けながらアトリエの往復、ただそれの繰り返し。確かに、展覧会に呼んでもらう機会も増えて交友関係も広がったし、嬉しい出来事も沢山あったんだけど、段々と不感症になってきちゃって…黙々と独りで制作する日々を8年間ぐらい続けていたら、精神的な限界が来た。
それで31歳になって、突如初めての就活をスタートしたんです。だけどそんな今更やり始めてもさ、試験の受け方とかマークシートのやり方とかすらわかんなくて(笑)周りの作家仲間にアドバイスを受けながら就活していました。

そんなことがあったんですね…。心身的に限界が来たので、就職をして、作家を辞めようとしたということですか?

いや、作家を辞めることは考えていないよ。そういうことではなくて、当時はアルバイトで月10万しか稼げてなかったから、収入をちゃんと得ながら制作をやっていこうと思い立ったんです。10万じゃ制作も生活もままならないし、デートもだってできやしない。彼女にフラれる理由とか呆れられる原因にもなっちゃう(笑)
就活の結果、一ヵ所は落ちちゃったんだけど、運良く作家仲間に紹介してもらった支援学校の非常勤講師の仕事をしながら、今は作家活動を行っています。

作家は辞めない、という思いがすごいですね!何を基軸にして、制作活動を行っているのでしょうか。

故郷、ノルスタジア、コミュニティを辿り、自分が小さい頃に行っていた遊びを軸にした制作を続けています。黒歴史ノートを知っている人には「絵画作品もあのノートの一部分なんですか?」と聞かれるんですけど、そこまで決めているわけじゃなくて、あくまでノートも表現の一つなんです。小さい頃の見よう見まねで描いていた”絵”が原点でありルーツになっていて、すべての作品につながっている感じですね。

作家活動において、大切なことは何だと思いますか?

制作を続け、社会と繋がろうとすることが肝だと思います。社会人になればなるほど、人の役に立つ部分を求められるからね。つまり、作品が色んな人に売り買いされたり、感動を与えたり、共有されたり、必要とされたりする場面を増やすべきってこと。
そのためには、役割を持つことがとっても重要です。周りに優しい人、しっかりしてないけどムードメーカーな人、性格に難ありだけど面白い話ができる人、パッとしないけど外から人を引っ張ってきて動きをもたらしてくれる人とか、タネリにも色んな人がいます。何かしらの部分で仲間内でも尊敬されるのが大切なんじゃないかな。

どうして人の役に立つ必要があるのでしょうか。

作家仲間の鈴木優作くんとも話していたんだけど、最近になって人間関係って”渦”なんじゃないかなって思うんだよね。タネリを始める前はさ、人と人が点のように存在して、その点と点が繋がって面になってどんどん広がっていくような、平等でフラットな関係性だと捉えていたのだけど、現実をしっかり見てみると、平等ではなく、渦の中心にいる人が周りを巻き込んで大きくなっていく。その傍ら、大きな渦からあぶれていく人や弾かれてしまう人もいる。僕らは作家っていうちょっと異質な職でも、社会の中にいることは変わりないからさ、そういう社会の渦から弾かれないようにしないといけないと思うんだ。残酷なことだけど、タネリっていうこんなに平和的なコミュニティですらそういうことを感じてしまうから、どこに行ってもこの渦に巻き込まれるんだろうね。
でも社会人の良い点は、別の渦に移ることが出来るってところ。高校までは大半がクラス制だよね、だから一つの渦の中でしか役割を掴みにくい。けれども、社会はすごく広いから、弾かれたら別の渦に移ればいい。もしくは自ら渦に入らないで、もっと別次元の存在になろうとする人もいていいかもしれないね(笑)選択肢はたくさんあるはずだよ。

タネリスタジオビルディングは、いつ頃始めたのでしょうか?

31歳の時ですね、作家仲間の植松ゆりかさんが声をかけてくれたのが始まりです。
今までの生活に一区切りつけ、適度なコミュニティと制作環境に身を置いた方が良いんじゃないかと考えていたので、やろうと思い立ちました。さっきも言ったけども、孤独で淡々な生活は、社会と繋がっていると言えるのかわからない状況だったからさ、精神的に良くなくて、作品もダメになっていく。それで意を決しました。

タネリをオープンして3年経ちましたが、どうでしたか?

とても不思議な感覚ですね。タネリを始めたばかりの頃、特徴も何もなかったし、たった3人ぐらいで立ち上げたので、すごく寂しい場所だったんです。とりあえず、日進月歩だけども、やろう、やろう、と続けていた。たったそれだけ、先を考える余裕もなかった。
なのに今は、僕らのことを面白がって協力してくださる方が増え、いつの間にか沢山の人が集まって、近くにカフェができて、居酒屋もできて、こんなコミュニティができるなんて想像すらしていませんでした、すごいことですよね。
でも、だからこそ今の形になったんだろうな。僕、歴史が好きだから、よく歴史に基づいて物事を考えちゃうんだけど、最初から巨大な帝国を作ろうとする主導者なんていないんだよね。世の中そんなに甘くない(笑)主導者が地道な仕事を熟していくと、野望もプランも大きくなって、自分たちの領土が広がり、目標も大きくなっていく、みたいな。それが基本だと思っているの。いきなり「トリエンナーレをしたい!」みたいな規模の大きいことを考えちゃっていたら、きっとこんなに上手くいかなかっただろうし、何よりすごいストレスだよね(笑)自分たちのやりたいことや面白いことを目指して少しずつ進めていった結果が、この”タネリスタジオビルディング”なんじゃないかな。

作家活動は大変ではないですか?

すべてにおいて同じだと思うのだけど、自分が好きで選んだことは、苦しいことだとしてもその中に楽しさを見出せる。逆に言うと、自分で選ばないで大変な境遇になっちゃったら、すごく苦しいと思う。それこそ鬱になっちゃうよね。どんな生き方でも、自分の中にバックボーンがないと辛いんだよ。
例えば、数学とか計算が好きで金融やIT系の仕事に進んだ人なら、当たり前だけど好きなことを仕事内でできるわけで、大変だけど楽しめるよね。そうじゃなくて、なんとなく楽そうとか、給料が良いからとか、そういう理由で生き方を選んじゃうと、好きなことがその場にないから苦しくなっちゃう。「なんでこんなことをやんなきゃいけないんだ!」って。
僕は作品をつくっている瞬間がやっぱり楽しいし、仕事明けで疲れていてもいつの間にかアトリエに立っている。どんなに苦しくても体が自然と制作に向かってしまうのは、僕の能力であり特技なのだから、アーティストを続けるべきなんだろうなって思います。

「好きなものが見つからない」という人も沢山いると思うのですが、どうすればいいと思いますか。

自分で色々決めすぎないほうがいいかもね、周りの人の言うことに耳を傾けて、参考にしてみるのはどうかな。若ければ若いほど、自分の考えを持たないといけないとか、自分の将来は自分で切り拓かなければならないって感じ、あるじゃんね。でもさ、好きなものって導かれる時もあると思うの。僕だって先生に絵を褒められたのが今の作品制作のキッカケになっているわけで、当時は自分の絵が面白いと思ってもらえるなんてこと、まったく気付いていなかった。周りに言われてから「僕の絵は面白いんだ。」って知ったからこそ、絵を続けていこうってなったんだよね。
だから、そうやって気付かせてくれる良い環境を自分で作るか、そういう場に突き進んでいくか、はたまた偶然か、色んな方法があるけれども、とにかく、困っちゃった時は自分の周りの意見を聞いてみるといいよ。

今後の目標、やりたいことはありますか?

タネリでレジデンスを開催することです。「人が呼べるぐらいに綺麗になってきたし、実際にオープンスタジオもできたし、そろそろレジデンスとかやらないの?」って周りから声が上がってきたので、最近になって考え始めました。お客さんが来たとしても、周りのお店やゲストハウスも紹介できるし、すごく楽しい文化が出来上がってきているのを感じているので、やってみたいね。

後輩やこれから作家を目指す人に何かアドバイスはありますか?

損得勘定をやめよう!(笑)いつの時代もこういう考えの人は一定数いるんだけどさ、これまでの様々な歴史を追って確かに言えることは、損得を超えたことをできる人が現状を打ち破っているんだよね。
何より損得で物事を判断し続けると、周りの人を傷つけるし信頼を失う。そういうとこを超えたものを目指さないと、幸せになれないんじゃないかな。