今日は一日家の仕事。
ただ、普段よりは少しゆったりと過ごすことができた。
このところ、青柳いづみこさんの「グレン・グールド 未来のピアニスト」を読んでいるので、グールドを聴くことが多い。グールドを聴くことが多いということは、必然的にJ.S.バッハを聴くことが多いということになる。
普段はあまりバッハを聴く頻度は高くない。ただ、10数年前に椎間板ヘルニアを患い入院生活を送っていたときはバッハばかり聴いていた。いや、バッハしか聴く気がしなかったのだ。毎日毎日グールドを聴いていた。
椎間板ヘルニアの痛みは猛烈で、心身共に非常に弱ってしまった。そんなときに「気を紛らわす」ために音楽を聴こうと思っても、聴く気がしない。モーツァルトでさえ聴く気がしなかった。そして、唯一聴けたのがバッハだったのだ。
後に、音楽評論家で随筆家の故吉田秀和氏の本「永遠の故郷〈夜〉」を読んで同じような心境が綴られていたのに驚いた。50年以上連れ添った妻を亡くされた吉田氏は大きく落胆し何もやる気にならない上に音楽さえ聴くのが疎ましくなったという。モーツァルトでさえ「僕が、僕が、という声が聞こえ、わずらわしかった」のだそうだ。そして、唯一聴くことができたのがバッハだったという。
バッハの音楽を聴いていると、彼が自己を主張している気がしない。なにか、宇宙の摂理に基づいた音楽を坦々と語っているようで、聴いていて煩わしく感じることがない。
ただ、不思議に、心身が恢復してくると、モーツァルト、ベートーヴェン、そして、ブラームス、ブルックナーに戻って行った。語弊があるかもしれないが、少しこってりした料理を身体が欲してくるのに似ているのかもしれない。
さて、庭の花梨の実が成った。しかし、既に花梨酒はストックが十分あり、今後100年くらい咳止めは要らないくらいだ。せっかく成ってくれたのにもったいないが、良い香りを部屋に放ってもらおうかな…
一つ、木のてっぺんにあるのは手が届かず、落ちてくるのを待つことにした。
家に長く居ると、ウニが如何に”寝てばっかり”かということがわかる。
でも、その姿を見ていると心の凝りがほぐされる。
自己主張は激しいところがあるが、それは生き物としての自然な姿なので逆に癒されるのだろうか。