今日は清々しい晴天。
空気がサラリとして実に心地よい。
高知と名古屋空港(小牧)を結ぶ飛行機は一日一便、つまり、一往復しか無い。
今日の復路はお昼すぎなので、待ち時間が結構ある。
空港近くまで行ったのだが、出発時刻まで時間があったので、周辺を少し回ってみた。
あれっ!見慣れないものがある。
戦争の遺物だということは、何となく想像がつく。
弾薬庫か防空壕か…?
そう、これは飛行機の格納庫で「掩体(えんたい)」という。
第二次大戦中、米軍の爆撃から飛行機を護るために作られた防空壕なのだ。
掩体は掩体壕とも言われ、戦争中、全国に作られた。
今も、北海道、栃木、茨城、東京、千葉、滋賀、大阪、愛媛、大分、熊本、鹿児島などに遺されている。
ちなみに”掩”は「おおう」「かばう」という意味がある。掩護(援護とも書く)という言葉にも使われている。
この高知県南国市の掩体の天井には”むしろ”やセメント袋の跡が付いている。それはこの掩体の作り方が関係している。
まず掩体と同じ大きさの土まんじゅうを作り、それを固めてむしろやセメント袋などを敷き詰め、その上にセメントを流し込み、セメントが固まってから中の土を取り除くという方法で作られたので、天井にむしろやセメント袋の跡が付いているのだ。
そして、これらの作業をしていたのは中学生、近くのお母さん、刑務所の受刑者、朝鮮半島から強制的に連れてこられた人々だったとのことだ(南国市教育委員会の資料による)。
戦争の遺物として残っている掩体が今に語り伝えるものは何だろう?
有無を言わせず土地を奪われた農民、強制的に働かされた人々、そして、その結果がもたらしたものは?
戦争は怨嗟の繰り返しを生むだけで、そこに「勝利」など無いということは、その後の世界で繰り返された戦争を見てもはっきりしている。
おびただしい数の戦争の犠牲者の声なき声に耳を傾け、同じ過ちを繰り返してはならないと心から思う。
今日はいつもと違って瀬戸内海を渡るルートだ。
播州平野の上空。淡路島が見える。
四国から淡路、そして、六甲山系が繋がって盛り上がっている様子を見ると、この地形がどのようにして出来たのか想像が付く。
六甲山系が海に突き出しているあたり(画面中央)大阪平野の西の果てに私の実家がある。
名港中央大橋。
名港西大橋、名港東大橋と合わせて”名港トリトン”の愛称で呼ばれている。
画面中央上に名駅(名古屋駅)周辺の高層ビルが見える。こうやって見ると、名駅って海から近いんだ!?
遠くに名駅のビル群。強風で揺れながらの降下。
かなり左右に揺らされながらのランディングだが、パイロットは見事な腕前。
午後3時過ぎに大学に着いて、打ち合わせと大学院の研究科委員会。
終わった頃には太陽もサヨナラモードに。
多くの方々と会うことが出来て、充実した旅となった。