なんと5月が今日で終わってしまう。
なんて早いんだ、時の経つのが!!
あと1ヶ月で半分終わっちゃうのか今年が…
なんて落ち込んでる場合じゃない!
午前中は家の仕事、そして、お昼前に勇んでジムに行ったら… なんとお休み。
午後からは、行こうかどうか迷っていたミホミュージアムのバーネット・ニューマン「十字架の道行き」を見に行くことにした。
というか、考えてみると今日を逃せば行けないという現実に直面したのだ。
ミュージアムに。
ローマの時代のモザイク!
スゴイね、こんなのがあるなんて!?
そして、ニューマンの「十字架の道行き」
想像していたより狭い空間。これが良いのかどうか…
正直なところ、もっと「ガーン!」と来るものを期待していた。
・・・だが、違うのだ!
見ているうちに、それは見えてくる。
何かを期待するのではなく、すべてを受け入れる覚悟がまず必要だと分かった。
ロシア系ユダヤ人としてのニューマンが描くイエス・キリストの最後の受難劇は? などと考えてはいけない。
この受難のストーリー、そしてイエスの「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」という言葉。非常に様々で複雑な解釈を呼ぶこのことばを敢えてタイトルとしながら、彼が「自分は一人のアメリカ人だが、作品がそれを乗り越えてほしい」と作品が普遍性を獲得することを強く望んでいることを考えても、我々はそこにストーリーが貼り付いた作品を見るのではなく、むしろ、両者の間の圧倒的な距離を見るべきではないかという気がしてならない。
例えば、他のストーリーを当てはめても作品は成立する(ことの善し悪しは置いておいて)であろうし、そのように見ると、作品の普遍性が俄に浮かび上がってくるように感じられる。
作家は非常にストイックに最小限の行為によって(色彩的にも切り詰めて)作品を成り立たせている。Zip(画面を縦に分割、あるいは二つの画面を繋ぐ線)の位置には共通性を持たせながらも、それによってつながれている絵画空間はそれぞれ異なっており、ロウ・キャンヴァスや油彩、アクリル、マグナなどの異なる画材による色彩や質感の多様性、時間を伴った行為の痕跡が、一作々々に豊かな世界を与えている。
この空間で過ごした時間の中で色々なことが見えてきたことは実にうれしい。
ニューマン自身がこの連作の途中から「レマ、サバクタニ」を思いついたということもあり、あまりタイトルに引っ張られない方が良いと思う。
午後5時の閉館後、空はまだ明るい。