70年前の1945年8月9日午前11時2分、長崎に原爆が投下された。
一瞬のうちに多くの命が失われ、その後も苦しみのうちに亡くなった方の数は膨大だ。
人一人の命がどれほど大切なものか、それは自らの命や大切な人の命を考えると明白であり、その想像力を失わせるのが戦争だ。
戦争が解決にならないことは、たとえ力で相手をねじ伏せたとしても、蹂躙された方の怨嗟は消えないばかりか、代々伝えられ、怨念の連鎖となって続いて行く現実を見ても明らかだろう。
広島・長崎は永遠に伝えられるべきだと心から思う。
さて、このところ少しずつ読んでいる本「チェリビダッケとフルトヴェングラー(Lieber Herr Celibidache…)」でレーオ・ボルヒャルト(Leo Borchard)という指揮者のことを初めて知った。
ボルヒャルトはベルリンフィルハーモニー管弦楽団の第2次大戦後初のコンサートを指揮した人物で、ドイツ人の両親のもとに1899年モスクワで生まれた音楽家だ。
大戦中、命がけの反ナチ運動に身を投じていたボルヒャルトは、1945年5月8日にドイツが無条件降伏したのち、廃墟となったベルリンでベルリンフィルの団員集めに奔走し、早くも5月26日に戦火を逃れた映画館(ティタニア・パラスト)で戦後初のコンサートを開催した。そして、最後の公演となる8月20日までに22回のコンサートを指揮した。
1945年8月23日、音楽愛好家の英国大佐から招待された晩餐会の後、自宅に戻る車中でボルヒャルトは米軍の歩哨兵の銃弾に倒れた。英国ナンバーを見落とした歩哨兵の停止命令に運転していた大佐が従わなかったからだと言われている。銃弾はボルヒャルトの頭に命中し、彼は即死した。
戦前からベルリンフィルハーモニーを率いてきたフルトヴェングラーが、非ナチ裁判の間演奏活動が禁止されており、その空白期間を担ってきたのがチェリビダッケだと漠然と思っていたのだが、その前にベルリンフィルを支えた人物がいたことを初めて知った。しかし、いずれにしても痛ましい話だ。
ボルヒャルトがこのような惨事に遭わなければ、ベルリンフィルハーモニーの歴史は大きく変わっていただろうし、私たちは素晴らしい演奏記録を財産として持ち得たかもしれない。
作曲家のアントン・ヴェーベルン(Anton Webern)が1945年9月15日にオーストリア占領軍の米兵による誤射の犠牲になったことにも、本当にやるせない気持ちにさせられるが、彼らがその後の人生で残せたであろう財産を失ったことは私たちにとっても大きな損失に違いないし、何より、彼らの希望に満ちた人生を一発の銃弾が帳消しにしてしまったことが悲しい。
戦争の愚かさについてつくづく考えさせられる。